「二源泉」 責務について その2 ――社会の法と自然の法則
前回に続く部分の引用となる。前回は、責務が社会全体の圧力として私たちに働くことを見た。今回は、その社会的な圧力が、なぜ私たちには自然の法則のように感じられるのか、という箇所を読む。 しかし、すべては、この社会的規則性が自然の法則と同一視できるものであると私たちに信じさせるように作用する。私は、ある行為を称賛し、他の行為を非難することにおける人々の意見の完全な一致についてだけ話しているのではない。私が言いたいのは、価値判断に含まれる道徳的教えが守られていない場合でさえ、人々はそれが守られているかのように取り繕うということだ。ちょうど私たちが街を歩くときに病気を目にすることがないのと同じように、私たちは人類が示している表面的な姿の背後にある不道徳さを測り知ることはない。もし他者を観察するだけに留まるならば、人間嫌いになるにはかなりの時間がかかるだろう。人が人間を哀れんだり軽蔑したりするようになるのは、自分自身の弱さに気づくことによってである。そのとき人が背を向ける人間性とは、自己の深奥に発見した人間性のことである。悪は巧みに隠され、その秘密はあまりにも普遍的に守られているため、ここでは誰もが、皆に欺かれているのである。私たちがどれほど厳しく他人を裁くふりをしても、心の底では、彼らが自分よりも優れていると信じているのである。この幸福な幻想の上に、社会生活の大部分は成り立っている。 社会がその幻想を奨励するためにあらゆることをするのは当然である。社会が制定し、社会秩序を維持する法律は、ある側面では自然の法則に似ている。哲学者の目には、その違いが根本的なものであることは認めよう。事実を記述する法則と、命じる法とは別物である、と彼は言う。後者には抗うことができる。それは責務を課すが、必然化するものではない。それに対して前者は不可避である。なぜなら、もし何らかの事実がそれから外れるならば、それが法則と見なされたのは誤りであったということになるからだ。そこには別の、真の法則が存在し、それは観察されるすべてを表現するように述べられ、そのとき、背反する事実も他の事実と同様にそれに従うことになるだろう。――おそらくその通りだろう。しかし、この区別は多くの人々にとってそれほど明確であるとは...