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「本居宣長」第一章 その 3 「朝日に匂ふ山桜花」

  本居宣長と言えば、                 敷島の 大和心を   人問はば 朝日に匂ふ 山桜花   の歌がよく知られている。だがこれは、二重の意味で難しい歌だとされる。まず、本来的な意味で理解が難しい。われわれが「桜」というとき、まず思い浮かぶのは江戸時代後期に開発されたソメイヨシノだが、それまでは桜と言えば山桜だったそうだ。山桜はソメイヨシノと違って、薄紅色の花と同時に赤褐色の若葉が芽吹く。小林秀雄さんによれば、古来、桜は七分咲きが見頃とされてきたそうである (講演「文学の雑感」 / 新潮 CD 「小林秀雄講演」第1巻所収) 。「匂ふ」とあるが、これもまた難しく、「匂ふ」には色が染まる、照り輝く、匂いが香る、艶っぽく元気な有様など、多くの意味があると説かれている。また、大和心も現代風の勇ましい意味合いの大和魂とは違う。大和魂も大和心も元は平安時代の言葉で、 才 ざえ (学問) や 漢意 からごころ (中国の国風や文化に感化された心) と対比される言葉であった。平安期以降しばらく使われていなかったが、宣長が改めて使い始めたという。学者の硬い心とは違う、柔らかな生きた知恵であり、両方とも女性が使い出したのだろう、と言われている。 さらにこの歌は、もう一つの意味で難しい。それは歴史的経緯の中で、戦争に利用されてしまったからである。明治維新を経て先の大戦になると、この歌は国民の戦意向上のために使われた。大和心は勇ましい意味で捉えられ、敷島、大和、朝日といった戦艦の名前も、この歌から取られたと聞く。こうした経緯のため、敗戦後の日本では本居宣長は正当に顧みられていなかった。国粋主義や軍国主義と結びつけられ、本来の姿を捉えることが難しくなっていたようだ。   しかし、戦後三十年が過ぎ、昭和五十二年の秋に刊行された小林さんの「本居宣長」はよく売れた。この経緯は新潮社で単行本『本居宣長』の編集に携わった池田雅延氏の「随筆 小林秀雄 (五十) 」に詳しいが、そこに興味深いエピソードがある。ある年配の読者から届いた手紙の概要を池田氏が摘記している。      ―...

「本居宣長」第一章 その2 申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)

前稿で引用した初めの二つの段落に続いて、小林さんは、雑誌から「本居宣長」の依頼を受けてからしばらく何も書けずにいたが、うららかな晩秋の日にふと松阪へ行きたくなり、実際に宣長の住んでいた松阪に赴いて墓に詣でた、と書き進められている。当時は両墓制と言って、身内でのお参りのための墓と「他所他国之人」向けの墓があり、その「他所他国之人」向けの墓は、「山室の妙楽寺という寺の裏山に在る」と書かれている。引用したい。   「他所他国之人」は、名古屋に一泊し、翌朝、松阪駅前のタクシイの運転手に尋ねたが、わからなかった。彼は、自分は松阪の生れだが、どうも自慢にならぬ話だから、捜して一緒にお詣りしたい、と言った。戦後、ほとんど訪れる人もないのであろうか。苔むした石段が尽き、妙楽寺は、無住と言ったような姿で、山の中に鎮りかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。   この簡明、清潔で、美しい奥墓の記述から、小林さんは宣長の遺言書へと筆を運ばれる。池田雅延氏が Web 雑誌『身交ふ』に連載されている 「小林秀雄『本居宣長』を読む(三)」 で跡づけられているように、この部分は「本居宣長」発表以来、長さや詳しさゆえにしばしば話題にされて来たらしい。けれども、私がまず立ち止まりたいのは、その風変わりさではなく、なぜ小林さんがこの遺言書から「本居宣長」を書き起こされたのかという一点である。私たちはともすると「遺言」という言葉からすぐに死後の後始末を思ってしまうのだが、少なくとも小林さんはそういう通念の上で宣長の遺言書を読んではいないように思われる。むしろ、生前の宣長が死を見据え、自分の葬送を文章の上で出してみようとした、その独白のようなものとして読まれている。そう考えると、小林さんが遺言書をもって「宣長の思想劇の幕切れ」を眺めたと言われることにも納得がいく。 宣長の遺言書の引用は、墓とともに植えられる桜の話から始まり、墓は質素でもよいが、大好きな桜には一流のものを求めていることが語られ、それから死んだ後の始末へと移っていく。この部分を小林さんは、「この、殆ど検死人...

「本居宣長」第一章 その1 「主調低音」

小林秀雄さんの「本居宣長」は難解で、その中でも第一章は特に難しいとされている。  第一章を俯瞰すると、民俗学の泰斗折口信夫氏に本居宣長について話を伺いに行くというところから始まる。次に雑誌に連載をすることとなりなんとも言葉になかなかならない想いを抱えながら本居宣長のお墓参りに行ったという話になり、そこから本居宣長の書いた遺言書の引用になる。この遺言書にはいわゆる「申被六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)」の話があり、おそらく宣長以外には誰にも理解し得ない謎がそこには横たわっている。その後にも遺言書の話は続くのだが、最後に宣長がどれほど桜が好きであったかの紹介がなされて終わる。  私見では、詰まるところ、三つの部分で構成されているように思える。すなわち、折口信夫氏との思い出、宣長の遺言状、そしてそれに纏ってではあるが宣長がどれほど桜に愛着を持っていたかという話に分けられるのではないかと思っている。     さて、唐突だが一旦ここまでを書いて l’ecoda の池田雅延氏の 『小林秀雄本居宣長』を読む(一) 開講にあたって」  で気になる部分があったことを紹介したい。それは、   (前略)昭和十六年の夏、先生は哲学者、三木清氏と「実験的精神」と題して対談し(同第14集所収:筆者註 小林秀雄全作品第14集のこと)、そこで言っています。――誰それの思想は、こういうものだと解らせることはできない、思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ……   という部分だ。この前の部分で池田氏は小林さんの言う思想はイデオロギーとは違うということを説明されてから、では、思想とは何かを述べられる際にこのような小林さんの言葉を引いておられる。小林さんの「本居宣長」はこのような意図をもって描かれた思想のドラマということも。  さらに言うと、池田氏はしばしば「小林先生は、自分の文章は詩を書いているんだ、と仰っていた」ということを言われる。小林さんの文章はボードレールから強く影響を受けていたようだが、その背景には「思想というものは、解らせることのできない独立した形ある美なのだ、だから思想は、実地に経験しなければいけないのだ」という思いがあるのだろう。    本題に戻ろう...