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「二源泉」 責務について その2 ――社会の法と自然の法則

前回に続く部分の引用となる。前回は、責務が社会全体の圧力として私たちに働くことを見た。今回は、その社会的な圧力が、なぜ私たちには自然の法則のように感じられるのか、という箇所を読む。          しかし、すべては、この社会的規則性が自然の法則と同一視できるものであると私たちに信じさせるように作用する。私は、ある行為を称賛し、他の行為を非難することにおける人々の意見の完全な一致についてだけ話しているのではない。私が言いたいのは、価値判断に含まれる道徳的教えが守られていない場合でさえ、人々はそれが守られているかのように取り繕うということだ。ちょうど私たちが街を歩くときに病気を目にすることがないのと同じように、私たちは人類が示している表面的な姿の背後にある不道徳さを測り知ることはない。もし他者を観察するだけに留まるならば、人間嫌いになるにはかなりの時間がかかるだろう。人が人間を哀れんだり軽蔑したりするようになるのは、自分自身の弱さに気づくことによってである。そのとき人が背を向ける人間性とは、自己の深奥に発見した人間性のことである。悪は巧みに隠され、その秘密はあまりにも普遍的に守られているため、ここでは誰もが、皆に欺かれているのである。私たちがどれほど厳しく他人を裁くふりをしても、心の底では、彼らが自分よりも優れていると信じているのである。この幸福な幻想の上に、社会生活の大部分は成り立っている。         社会がその幻想を奨励するためにあらゆることをするのは当然である。社会が制定し、社会秩序を維持する法律は、ある側面では自然の法則に似ている。哲学者の目には、その違いが根本的なものであることは認めよう。事実を記述する法則と、命じる法とは別物である、と彼は言う。後者には抗うことができる。それは責務を課すが、必然化するものではない。それに対して前者は不可避である。なぜなら、もし何らかの事実がそれから外れるならば、それが法則と見なされたのは誤りであったということになるからだ。そこには別の、真の法則が存在し、それは観察されるすべてを表現するように述べられ、そのとき、背反する事実も他の事実と同様にそれに従うことになるだろう。――おそらくその通りだろう。しかし、この区別は多くの人々にとってそれほど明確であるとは...

「二源泉」 責務について その1――社会的習慣の圧力としての責務

  今回からしばらくは、ベルクソン「道徳と宗教の二つの源泉」 ( 以下「二源泉」と略す ) の初めの部分の引用をしたい。と言うのも、このところ、池田雅延氏の 「小林秀雄『本居宣長』を読む」の最近の回 や、小林秀雄さんの「私の人生観」を読み返すうちに、ベルクソンについて私があれこれ言葉を重ねるよりも、ベルクソン自身の文章に読者の方々が直に触れる機会を作ることの方が、よほど大切なのではないか、と思うようになったからだ。 そこで今回から第七回ぐらいまでは、私自身の勉強のために、できるだけベルクソンの意に忠実であるよう直訳を心がけた「二源泉」の翻訳 ( 註 1) の一節を、そのまま読者の前に置いてみたい。私が訳したと言っても、 AI の力を借りたことは隠さずに記しておく。今回少し分量も多いが、ベルクソンの思考が「持続」のうちに少しずつ陰影を変えながら展開していく、その運びそのものを、私の解釈を間に挟まずに味わっていただきたい。  まずは、責務 ( 註 2) の話から入る。ベルクソンは初めに社会からの強制力の問題を考察するからである。ここではベルクソンが、責務を「理性の命令」としてではなく、「社会的習慣の圧力」として捉えようとしている点に注意して読んでいただけたらと思う。  なお、第一章の章題は「道徳的責務 (L'obligation morale) 」である。   禁断の果実の記憶は、人類の記憶においてそうであるように、私たち一人ひとりの記憶の中でも最も古いものである。もしこの記憶が、私たちが好んで立ち戻る他の記憶によって覆われていなければ、私たちはその古さに気づくだろう。もし私たちがしたいようにさせてもらえていたら、私たちの幼少期はどんなものになっていただろうか!私たちは快楽から快楽へと飛び回っていただろう。しかし、そこに目に見えず、触れることもできない障害、すなわち「禁止」が現れた。なぜ私たちは従ったのだろうか。その問いはほとんど立てられなかった。私たちは両親や教師の言うことを聞く習慣がついていたからだ。しかしながら、私たちが彼らに従ったのは、彼らが私たちの両親であり、教師であったからだということを、私たちはよく感じていた。したがって、私たちの目には、彼らの権威は彼ら自身からというよりも、私たちとの関係における彼らの立場から来ているよう...

「本居宣長」第一章 その 3 「朝日に匂ふ山桜花」

  本居宣長と言えば、                 敷島の 大和心を   人問はば 朝日に匂ふ 山桜花   の歌がよく知られている。だがこれは、二重の意味で難しい歌だとされる。まず、本来的な意味で理解が難しい。われわれが「桜」というとき、まず思い浮かぶのは江戸時代後期に開発されたソメイヨシノだが、それまでは桜と言えば山桜だったそうだ。山桜はソメイヨシノと違って、薄紅色の花と同時に赤褐色の若葉が芽吹く。小林秀雄さんによれば、古来、桜は七分咲きが見頃とされてきたそうである (講演「文学の雑感」 / 新潮 CD 「小林秀雄講演」第1巻所収) 。「匂ふ」とあるが、これもまた難しく、「匂ふ」には色が染まる、照り輝く、匂いが香る、艶っぽく元気な有様など、多くの意味があると説かれている。また、大和心も現代風の勇ましい意味合いの大和魂とは違う。大和魂も大和心も元は平安時代の言葉で、 才 ざえ (学問) や 漢意 からごころ (中国の国風や文化に感化された心) と対比される言葉であった。平安期以降しばらく使われていなかったが、宣長が改めて使い始めたという。学者の硬い心とは違う、柔らかな生きた知恵であり、両方とも女性が使い出したのだろう、と言われている。 さらにこの歌は、もう一つの意味で難しい。それは歴史的経緯の中で、戦争に利用されてしまったからである。明治維新を経て先の大戦になると、この歌は国民の戦意向上のために使われた。大和心は勇ましい意味で捉えられ、敷島、大和、朝日といった戦艦の名前も、この歌から取られたと聞く。こうした経緯のため、敗戦後の日本では本居宣長は正当に顧みられていなかった。国粋主義や軍国主義と結びつけられ、本来の姿を捉えることが難しくなっていたようだ。   しかし、戦後三十年が過ぎ、昭和五十二年の秋に刊行された小林さんの「本居宣長」はよく売れた。この経緯は新潮社で単行本『本居宣長』の編集に携わった池田雅延氏の「随筆 小林秀雄 (五十) 」に詳しいが、そこに興味深いエピソードがある。ある年配の読者から届いた手紙の概要を池田氏が摘記している。       ...

「本居宣長」第一章 その2 申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)

前稿で引用した初めの二つの段落に続いて、小林さんは、雑誌から「本居宣長」の依頼を受けてからしばらく何も書けずにいたが、うららかな晩秋の日にふと松阪へ行きたくなり、実際に宣長の住んでいた松阪に赴いて墓に詣でた、と書き進められている。当時は両墓制と言って、身内でのお参りのための墓と「他所他国之人」向けの墓があり、その「他所他国之人」向けの墓は、「山室の妙楽寺という寺の裏山に在る」と書かれている。引用したい。   「他所他国之人」は、名古屋に一泊し、翌朝、松阪駅前のタクシイの運転手に尋ねたが、わからなかった。彼は、自分は松阪の生れだが、どうも自慢にならぬ話だから、捜して一緒にお詣りしたい、と言った。戦後、ほとんど訪れる人もないのであろうか。苔むした石段が尽き、妙楽寺は、無住と言ったような姿で、山の中に鎮りかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。   この簡明、清潔で、美しい奥墓の記述から、小林さんは宣長の遺言書へと筆を運ばれる。池田雅延氏が Web 雑誌『身交ふ』に連載されている 「小林秀雄『本居宣長』を読む(三)」 で跡づけられているように、この部分は「本居宣長」発表以来、長さや詳しさゆえにしばしば話題にされて来たらしい。けれども、私がまず立ち止まりたいのは、その風変わりさではなく、なぜ小林さんがこの遺言書から「本居宣長」を書き起こされたのかという一点である。私たちはともすると「遺言」という言葉からすぐに死後の後始末を思ってしまうのだが、少なくとも小林さんはそういう通念の上で宣長の遺言書を読んではいないように思われる。むしろ、生前の宣長が死を見据え、自分の葬送を文章の上で出してみようとした、その独白のようなものとして読まれている。そう考えると、小林さんが遺言書をもって「宣長の思想劇の幕切れ」を眺めたと言われることにも納得がいく。 宣長の遺言書の引用は、墓とともに植えられる桜の話から始まり、墓は質素でもよいが、大好きな桜には一流のものを求めていることが語られ、それから死んだ後の始末へと移っていく。この部分を小林さんは、「この、殆ど検死人...