「本居宣長」第二章 その2 思想の交差するところ(2)

 小林秀雄さんの「本居宣長」第二章は、次のように締めくくられる。

彼は、最初の著述を、「葦別小舟あしわけおぶね」と呼んだが、彼の学問なり思想なりは、以来、「万葉」に、「障さはり多み」と詠まれた川に乗り出した小舟の、いつも漕ぎ手は一人という姿を変えはしなかった。幕開きで、もう己れの天稟てんぴんに直面した人の演技が、明らかに感受出来るのだが、それが幕切れで、その思想を一番よく判読したと信じた人々の誤解を代償として、演じられる有様を、先ず書いて了ったわけである。

――小林秀雄「本居宣長」

こうして、本居宣長の思想劇の幕が開く。その劇が宣長の遺言書からはじまるこの構成では生が死へ、死が再び生へとつながり、それらが判然と区別できないまま始まりと終わりがつながっている。「誤解を代償として、演じられる有様」という小林さんの言葉はまた、「自分もまた宣長を誤解してはいないか」という問いを読者一人ひとりに投げかけ、我々を単なる傍観者としてはおかない。

さて、その宣長の思想を支えていたのが、池田雅延氏が聞き取った「生きた個性の持続」(Web雑誌『身交ふ』「小林秀雄『本居宣長』を読む(五)」)ではないかということは前回少しだけ触れた。つぎは、池田氏が聞き取ったその調べに耳を傾けたい。

池田氏は、まず小林さん自身が語った「持続」という言葉に耳を澄ませる。

小林先生にあって「一貫」と「持続」という言葉は格別の重みを持っています。わけても「持続」は、「私の人生観」(「小林秀雄全作品」第17集所収)にはこういう文脈で現れていました。

     ――宮本武蔵の「独行道どつこうどう」のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。(中略)これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬという様な浅薄な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいうものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、そういう小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、そういう意味合いがあると私は思う。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日の事を後悔しなければならぬ明日がやって来るだろう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処まで歩いても、批判する主体の姿に出会う事はない。別な道が屹度あるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。……

        そして、ここからです、

     ――それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替えのない命の持続感というものを持て、という事になるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大した事ではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れる様なものだ、とこの達人は言うのであります。行為は別々だが、それに賭けた命はいつも同じだ、その同じ姿を行為の緊張感の裡に悟得する、かくの如きが、あのパラドックスの語る武蔵の自己認識なのだと考えます。……

        小林先生が、こういうふうに用いる「持続」という言葉は、「小林秀雄全集」の随所に見られますが、こうした「持続」という言葉の指し示すところはベルグソンに、小林先生が批評家としてだけでなく、人間として生きる人間観の多くを負っていると自ら言っている一九~二〇世紀フランスの哲学者、ベルグソンに拠っています。ベルグソンと「持続」、と言えば、その著『時間と自由』が思い浮かびますが、小林先生は数学者、岡潔さんとの対話「人間の建設」(同第25集所収)では「持続と同時性」を引いてこう言っています。

     ――ベルグソンという人は、時間というものを一所懸命考えた思想家なんですよ。けっきょくベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです。そういうものがほんとうの時間だとあの人は考えていたわけです。……

 

(中略)

 

     小林先生は「ベルグソンの考えていた時間は、ぼくたちが生きる時間なんです。自分が生きてわかる時間なんです」と言ったのですが、「宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ない」と言っている「持続性」の「持続」は、やはりここで言われている「意識の中に介入物なしにとらえられた持続」であり、それは「メロディーの構成音におけるように、先行する諸状態と現在の状態とが浸透し合いながら生きもののように変化してゆく質的変化の継起以外のものではな」く、したがって、死後のことを思い悩んだり、死後の準備をしたりするのはさかしらで古意に背く、と門人たちに説いてきていた宣長と、自分の墓地を探しに行くと言って実際に出かけていった宣長とは言行不一致でもなければ自己矛盾でもなく、この両者は「意識の中に介入物なしにとらえられた持続」であって、「先行する諸状態と現在の状態とが浸透し合いながら生きもののように変化してゆく質的変化の継起」以外のものではなかったようなのです。

――池田雅延 「小林秀雄『本居宣長』を読む(五)」

 

     では、改めて、宣長が死後のことを思い煩うことは「さかしらごと」と言ったことと、遺言書を書き、墓所を選び、その上和歌を二首詠んだことのあいだの持続を我々はどう考えるべきなのだろうか。実はそこが、この「本居宣長」の大いなる謎であり、小林秀雄さんの残した問いかけであると私は思う。その問いかけに対しては、各々自分の答を探すべきだろう。池田氏も、「生きた個性の持続」を示すにとどめている。

     しかし、ここは私の読書記でもある。私なりの考えを述べてみたい。「本居宣長」はすでに古典であり、繰り返し読み味わうべきものだ。そして、終わりが始まりにつながっていることはすでに述べた。そこで、終わりの第五十章からヒントを得たい。そのヒントとは、

「御国にて上古、たゞ死ぬればよみの国へ行物とのみ思ひて、かなしむより外の心なく」と門人等に言う時、彼の念頭を離れなかったのは、悲しみに徹するという一種の無心に秘められている、汲み尽し難い意味合だったのである。死を嘆き悲しむ心の動揺は、やがて、感慨の形を取って安定するであろう。この間の一種の沈黙を見守る事を、彼は願っていた。

――小林秀雄「本居宣長」

の部分である。

ここで小林さんは、宣長が死に面した時の心の動きを見つめている。「死を嘆き悲しむ心の動揺」は、やがて「感慨の形を取って安定する」。その間には「悲しみに徹する」という「一種の沈黙」がある。

宣長が戒めた「さかしら」は、死を悲しむ心ではなかった。死後の世界についてあれこれと思いを巡らし、分からないものを分かったものとして取り扱おうとする人間の知性の行き過ぎを、宣長は退けたのであろう。しかし、死の悲しみそのものを退けたわけではない。むしろ、その悲しみから逃げず、悲しみが悲しみのまま一つの形を取るところまで見届けようとしたのではなかったか。

そう考えてみると、あの遺言書も少し違って見えてくる。

宣長は、自分の葬式の仕方を細かく記し、自ら墓所を選び、その墓に山桜を植えるように言い残した。そして墓所を定めた時、二首の歌を詠んでいる。

「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」

「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」

ここで二度繰り返される「ちとせ」「千代」という言葉が、私には気にかかる。宣長自身の命には限りがある。やがてその身体は墓に葬られる。しかし、墓に植えられた山桜は、宣長の死後も、春が来るたび若葉とともに花をつけるだろう。

もちろん、それは宣長が山桜となって生き返るということではない。死後について何事かを知ったということでもない。しかし、人の命は、その人の死とともにすべてが途絶えるのだろうか。

宣長の生きた命は、宣長を記憶する人々のなかに残る。門人たちに、子孫に、その書物を読む後世の人々に、記憶として受け渡されていく。記憶とは、過ぎ去ったものをただ保存することではない。過去に生きた人の言葉や姿が、現在に生きる者のうちに入り込み、その人を動かすことであるなら、そこには一つの命の伝承があると言ってもよいのではないだろうか。

死は悲しみをもたらす。しかし、山桜は、それとは反対の方向から引きつける。そしてその間には「一種の沈黙」がある。

宣長が墓所を選んだ時、そこにはまだ「ちとせの春」は来ていない。山桜も、まだ千年の花を咲かせてはいない。それなのに宣長は、「ちとせの春」を見、「千代のすみか」を得たと歌った。まだ訪れていない未来の春が、いま死を前にしている宣長の心を引いているのである。

過去からは記憶が流れ込み、未来からは山桜が牽引する。

その二つのあいだに、死を目の前にした宣長の現在がある。その二つのあいだに、沈黙を見守る宣長がいる。

そう考えると、「死後のことを思い煩うな」と説いた宣長と、自ら墓所を探し、遺言書を書き、山桜を植えるよう言い残した宣長とは、やはり二人の宣長ではない。前の宣長を後の宣長が否定したのでもない。それまで生きてきたすべてを記憶のうちに抱きながら、なお来るべきものに引かれて変化していく。その運動そのものが、池田氏の言う「生きた個性の持続」だったのではないか。

「死を嘆き悲しむ心の動揺」は消えてしまったのではない。その悲しみは、宣長の生涯の記憶を抱いたまま、やがて「感慨の形を取って安定」した。その形の一つが遺言書であり、墓であり、二首の歌であり、そして春ごとに若葉とともに咲く山桜だった。

人は死ぬ。宣長も死ぬ。しかし、宣長を記憶する者がいる。そして宣長が焦がれた山桜は、次の春にも咲く。

小林さんが、「この文を、宣長の遺言書から始めた」と書いたことも、ここに至れば私には少し分かったように思われるのである。

(つづく)


コメント

このブログの人気の投稿

思想の交差するところ(1)

「本居宣長」第一章 その2 申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)

まえがき