まえがき
日本の平均寿命は2022年の厚生労働省の統計によると、男性 81.05歳、女性87.09歳であるそうだ。一方で未婚男性の寿命の中央値が67歳という話があり、今年57歳の私はあと十年ぐらいすれば死んでいてもおかしくはない。
なぜこんなことを言い始めたかというと、小林秀雄は63歳から75歳まで十二年かけて「本居宣長」を執筆した。晩年の小林さんの担当編集者であって私も直接指導も受けた池田雅延氏も小林さんと同じく63歳から十二年かけて「本居宣長」を読もうと準備をしたとある(「小林秀雄『本居宣長』全景(一))私も顰みに倣いたいところではあるが、あと十年ほどで死ぬかもしれないと思うとあまりのんびりもしていられない。何せ、ベルクソンの「道徳と宗教の二源泉」(以下二源泉」と略す)も小林さんの「本居宣長」も畢生の大著である。私などが仕事の合間にやることが十年たっても終わるかどうかもわからない。
そう、読者は戸惑われるだろうが、私は十年は掛けて読書記をやるつもりでいる。目処は立っていないが、書かなければならない課題だけはある。
まず、はじめに序章として二つの文章を示すことになるだろう。旅のしおりのようなものである。それから徐々に文章を示していきながらの旅をすることになる
いま私は今回の読書を旅に例えたが意味のないことではない。小林さんの「本居宣長」は「道」の学問についての思想劇と言って良いし、ベルクソンの「二源泉」ももちろん道徳を扱っている。それが世人の考えるような道徳と同じかどうかはそれらの二著を見ていただきたくほかないと思うが、そこで切り拓かれている道は確かにある。ただし、なかなかに見失いがちな道だけに辿るのが難しいだけだ。それを愚人たる私が辿るために、それぞれの本を読むことを旅に例えたのである。
(5月26日追記: なお、この原稿と第一回目の原稿を書いてから、池田氏にお見せしたところ、まずタイトルについて触れられ小林さんの「本居宣長」とベルクソンの「二源泉」のアナロジーについては「小林秀雄『本居宣長』全景(十四)について書いたことをご指摘いただいた。もちろんそれを読んでいたつもりの私は顔から火が出るくらい恥ずかしかった。この旅を止めようかと思ったくらいだ。)
池田氏の講義を受けると、しばしば小林さんの「読書週間」や愛読について触れられる。その当時でも本が多すぎると小林さんは仰っていたそうである。今も愛読書という言葉は生きてはいるが、愛読の意味をもう少し深く考えた方がいいのではないかという問題提起だと私は受け止めている。
私は文学も哲学も素人であり、ただ愛読の意味をそしてそれに伴う人生の味わいの意味を深めたいだけだ。いわば自分のためにする読書を勝手に公開するという形になる。専門家はきっとまた失笑されるだろう。読者もそういないと思うが、これまでも好き勝手にやらせていただいたことには感謝を申し上げるほかはない。
令和6年5月22日(水)早朝記す
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