「本居宣長」第一章 その2 申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)

  前稿で引用した初めの二つの段落に続き、雑誌から「本居宣長」の依頼を受けてしばらく何も書けずにいたが、うららかな晩秋の日にふと松坂に行きたくなってしまい、実際に宣長の住んでいた松坂に行ってお墓参りをしたというふうに続く。当時は両墓制と言って、身内でのお参りのための墓と「他所他国之人」向けの墓がありその「他所他国之人」向けの墓は、「山室の妙楽寺という寺の裏山に在る」と書かれている。 

「他所他国之人」は、名古屋に一泊し、翌朝、松阪駅前のタクシイの運転手に尋ねたが、わからなかった。彼は、自分は松阪の生れだが、どうも自慢にならぬ話だから、捜して一緒にお詣りしたい、と言った。戦後、ほとんど訪れる人もないのであろうか。苔むした石段が尽き、妙楽寺は、無住と言ったような姿で、山の中に鎮りかえっていた。そこから、山径を、数町登る。山頂近く、杉や檜の木立を透かし、脚下に伊勢海が光り、遥かに三河尾張の山々がかすむ所に、方形の石垣をめぐらした塚があり、塚の上には山桜が植えられ、前には「本居宣長之奥墓」ときざまれた石碑が立っている。簡明、清潔で、美しい。

とあり、ここから宣長の遺言状の紹介へと移っていく。

 この遺言書については発表当時から様々に言及されて来たということと、池田雅延氏が述べられている。(l’ecoda 「小林秀雄『本居宣長』を読む(三)」)

 ところで、私ごとで恐縮だが、若い頃に中山正和氏の本で「怠け禅」というものを学んだ。それは、本に書かれたいくつかの公案を解いて行くというものであったが、その学びで私なりに得た結論は「仏は絶対不可知」ということであった。しかし、それが悟りであるわけもなく、そのことが直観されたからといって迷いがなくなったわけでもない。例えて言うなら、ゴツゴツした多角形の何かを仏様という理想の円にして行く作業がそこから始まったのだと思っている。つまりは、想い描いた仏様という美に交わり常に仏様を思い出すこと。それが「仏は絶対不可知」の意味だと自然に思うようになった。もっともそれもつい最近のことであるが。

 なぜこんなことを書いているかと言うと、宣長の遺言状がまた、あらゆる人の「解釈」を拒んでいるように思われるからだ。

 小林さんは長い宣長の遺言状を引用しながら解説しておられる。お墓の話から入り墓は質素でも良いが大好きな桜は一流のものを求めている話、死んだ後の始末、この部分を小林さんは、「この、殆ど検死人の手記めいた感じの出ているところ、全く宣長の文体である事に留意されたい。」と書かれている。少しだけ引用しようか。

「沐浴者世間並に而よろし、沐浴相済候はば、如平日鬚を剃候而、髪を結可申候、衣服者さらし木綿之綿入壱ツ、帯同断、尤袷に而も単物に而も帷子に而も、其時節之服可為候、麻之十徳、木造リの腰之物、尤脇差計に而よろしく候、随分麁末に而、只形計之造り付に而宜候、棺中へさらし木綿の小キ布団を敷可申候、随分綿うすくて宜候、惣体衣服、随分麁末成布木綿を可用候、扠、稿を紙に而、いくつも包ミ、棺中所々、死骸之不動様に、つめ可申候、但し、丁寧に、ひしとつめ候には不及、動キ不申様に、所々つめ候而よろしく候、棺は箱に而、板は一通リ之杉之六分板可候、ざっと一返削リ、内外共、美濃紙に而、一返張可申候、蓋同断、釘〆、尤ちやんなど流し候には不及、必々板等念入候儀は可為無用候、随分麁相成板に而宜候」

 遺体の始末に関わる部分に入りのちのちの祀り方や法事の仕方の説明に入って行くのだが、 詳しくは読者自身でお読みいただくとして、主題の申披六ヶ敷筋(もうしひらきむつかしきすじ)に関係のある部分だけを引いておこう。

扨て死骸の始末だが、「右棺者、山室妙楽寺へ、葬可申候、夜中密に、右之寺へ送り可申候、太郎兵衛并門弟之内壱両人、送り可披参候」とある。太郎兵衛というのは、小西太郎兵衛で、宣長の次男春村は、若くして薬種商小西家の養子となっていた。長男の春庭は、優秀な学者であったが、眼病で、もうこの頃は、気の毒に、全く失明して、鍼医を業としていたから、夜中の山道など、とても覚束なかったのである。しかし、世間並みの葬式は、「格別也」であった。「送葬之式者、樹敬寺に而執行候事、勿論也、右之寺迄行列如左」とあって、行列の図解になる。まず、提灯持行く、長刀持がつづき、樹敬寺の坊様に先導された、中身のない乗物、これに嗣子春村が従う、つづいて親類、門弟、挟箱、合羽籠、若党、草履取などの位置まで細かく指定されている。「已上、右之通に而、樹敬寺本堂迄空送也」と記されている。

つまり、遺体は夜中にひっそりと山室の妙楽寺に送って葬ってほしい。しかし葬式はきちんとすること。その時運ぶ遺体はないので「空送也」となるのである。

 このことを宣長自身は「仔細は無」いと考えていたようだが、それが役所に通るわけもなく、

村岡典嗣氏の調査によれば(岩波版「本居宣長全集」月報 五)、松坂奉行所は早速文句を附けたらしい。菩提所で、通例の通りの形で、葬式を済ませた上、本人の希望なら、山室に送り候て可然と、遺族に通達した。寺まで空送で、遺骸は、夜中密かに、山室に送るというような奇怪なる儀は、一体何の理由に由るか、「追而、いずれより、尋等有之候節、申披六ヶ敷筋に而可有之披存候」というのが、役人の言い分である。実際、そう言われても、仕方のないものが、宣長の側にあったと言えよう。この人間の内部には、温厚な円満な常識の衣に包まれてはいたが、いわば、「申披六ヶ敷筋」の考えがあった。

 

やはり、世人の理解を拒絶しているようである。つまり、簡単に自分のことをわかったと思わないで欲しいということなのだろうと私は愚考するのである。そして安易な理解を拒絶するところから人の死を本当に理解することは始まるのであろう。

 さて、私の師たる池田雅延氏はこの辺りどう述べられているのであろう。池田氏は「小林秀雄『本居宣長』全景」(以下「全景」と略す)(十三)で小林さんの「無常ということ」を非常に精緻に考察され「想い出す」ことの重要性を述べたり、

解釈を拒絶して動じないものだけが美しい、これが宣長の抱いた一番強い思想だ。解釈だらけの現代には一番秘められた思想だ。そんなことを或る日考えた

と、引いておられたりしている。この話は次章「全景」(十四)に続き、その後「全景」(十五)で宣長の遺言状の話に入るのだが、ここではあまり触れず実際の文章を読まれることをお勧めするに留めておく。

 ただ、私もそうであるが、このようなものを最初に見せられた「本居宣長」の読者は戸惑いその意図を量りかねることが多いようだ。理屈で理解するところの極限まで考えてみる。そして理解し得ないものに対処することを身を以て体翫する。それは少しずつ対象と交わりながら、すなわちじっくりと「本居宣長」という美に交わって何度も思い返しながら熟成していくのを待つこと。先日師ともお話しして言われた「時間をかけましょう」ということ、これが何度も思い回される。




 


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