「二源泉」 責務について その1――社会的習慣の圧力としての責務
今回からしばらくは、ベルクソン「道徳と宗教の二つの源泉」(以下「二源泉」と略す)の初めの部分の引用をしたい。と言うのも、このところ、池田雅延氏の「小林秀雄『本居宣長』を読む」の最近の回や、小林秀雄さんの「私の人生観」を読み返すうちに、ベルクソンについて私があれこれ言葉を重ねるよりも、ベルクソン自身の文章に読者の方々が直に触れる機会を作ることの方が、よほど大切なのではないか、と思うようになったからだ。
そこで今回から第七回ぐらいまでは、私自身の勉強のために、できるだけベルクソンの意に忠実であるよう直訳を心がけた「二源泉」の翻訳(註1)の一節を、そのまま読者の前に置いてみたい。私が訳したと言っても、AIの力を借りたことは隠さずに記しておく。今回少し分量も多いが、ベルクソンの思考が「持続」のうちに少しずつ陰影を変えながら展開していく、その運びそのものを、私の解釈を間に挟まずに味わっていただきたい。
まずは、責務(註2)の話から入る。ベルクソンは初めに社会からの強制力の問題を考察するからである。ここではベルクソンが、責務を「理性の命令」としてではなく、「社会的習慣の圧力」として捉えようとしている点に注意して読んでいただけたらと思う。
なお、第一章の章題は「道徳的責務(L'obligation morale)」である。
禁断の果実の記憶は、人類の記憶においてそうであるように、私たち一人ひとりの記憶の中でも最も古いものである。もしこの記憶が、私たちが好んで立ち戻る他の記憶によって覆われていなければ、私たちはその古さに気づくだろう。もし私たちがしたいようにさせてもらえていたら、私たちの幼少期はどんなものになっていただろうか!私たちは快楽から快楽へと飛び回っていただろう。しかし、そこに目に見えず、触れることもできない障害、すなわち「禁止」が現れた。なぜ私たちは従ったのだろうか。その問いはほとんど立てられなかった。私たちは両親や教師の言うことを聞く習慣がついていたからだ。しかしながら、私たちが彼らに従ったのは、彼らが私たちの両親であり、教師であったからだということを、私たちはよく感じていた。したがって、私たちの目には、彼らの権威は彼ら自身からというよりも、私たちとの関係における彼らの立場から来ているように見えた。彼らはある特定の立場を占めていた。そこから発せられる命令は、もし他の立場から発せられたとしたら持ち得なかったであろう浸透力を持っていた。言い換えれば、両親や教師は委任されて行動しているように見えた。私たちはそのことをはっきりと認識してはいなかったが、両親や教師の背後に、何か巨大な、あるいはむしろ不定なものが存在し、彼らを媒介としてその全重量をもって私たちに重くのしかかっているのを感じ取っていた。後になって私たちは、それが社会であると言うだろう。そして社会について哲学的に考察する際、私たちはそれを、目に見えない絆で結ばれた細胞が、巧みな階層構造の中で互いに従属し、全体の最大の利益のために部分の犠牲を要求することもある規律に自然と従う一つの有機体と比較するだろう。もっとも、それは比較に過ぎない。なぜなら、必然的な法則に従う有機体と、自由な意志によって構成される社会とは別物だからである。しかし、これらの意志が組織化された瞬間から、それらは有機体を模倣する。そしてこの多かれ少なかれ人工的な有機体において、習慣は、自然の働きにおける必然性と同じ役割を果たすのである。この第一の観点から見ると、社会生活は、共同体の必要に応える、多かれ少なかれ強く根付いた習慣の体系として現れる。それらのうちのいくつかは命令する習慣であり、大部分は服従する習慣である。それは、社会的な委任によって命令する人物に服従する場合もあれば、漠然と知覚され、あるいは感じられる社会そのものから、非人格的な命令が発せられる場合もある。これらの服従の習慣は、一つひとつが私たちの意志に圧力を加える。私たちはそれに抗うことができるが、そのとき私たちは、垂直から外れた振り子のように、それに向かって引かれ、引き戻される。ある秩序が乱され、それは回復されるべきなのである。要するに、あらゆる習慣がそうであるように、私たちは責務を感じるのだ。
しかし、それは比較にならないほど強い責務である。ある量が他の量に対して非常に大きく、後者が前者に対して無視できるほど小さい場合、数学者はそれを「オーダーが違う」と言う。社会的責務についても同様である。その圧力は、他の習慣の圧力と比較して、程度の差は質の差に等しいほどのものである。
実際、この種の習慣はすべて相互に支え合っていることに注目しよう。私たちはその本質や起源について思弁することはなくとも、それらが互いに関連していることを感じている。それらは、直接の周囲の人々や、その周囲を取り巻く人々、さらにその外側へと連鎖的に要求されていくものであり、その究極の境界が、いわゆる「社会」と呼ばれるものなのである。それぞれが直接的または間接的に社会的な要請に応えており、したがって、それらはすべて連携し、一つの塊を形成している。もしそれらが単独で現れれば、多くは些細な責務に過ぎないだろう。しかし、それらは責務一般の不可欠な部分をなしている。そして、その全体は、部分の貢献によって成り立っているが、見返りとして、各部分に全体の包括的な権威を与える。このようにして集合的なものが個々のものを強化し、「それが義務だ」という常套句は、私たちがそれぞれの責務の前に抱くかもしれないためらいに打ち克つ。実を言うと、私たちは部分的な責務の集合体が加算されて全体的な責務を構成するなどと、意識して考えているわけではない。おそらく、ここには厳密な意味での部分の合成はないのかもしれない。ある一つの責務が他のすべての責務から引き出す力は、むしろ、それぞれの細胞が、それ自身が一要素である有機体の深奥から吸い込む、不可分で完全な生命の息吹にたとえられる。各成員に内在する社会は、大小さまざまな要求を持つが、それらはそれぞれが社会の活力の全体を表現していることに変わりはない。しかし、これもまた比喩に過ぎないことを繰り返しておこう。人間社会は自由な存在の集合体である。社会が課し、それによって存続を可能にする責務は、社会の中に一種の規則性をもたらすが、それは生命現象の揺るぎない秩序と単に類比的な関係を持つにすぎない。
(註1) 底本は電子版v.1.0:レ・ゼコー・デュ・マキ、2013年4月刊。なお、節ごとの小見出しは先行翻訳にはあるが、Internet Archiveで公開されているTREIZIÈME ÉDITION(1933年版)やGallica版の画像を確認したが、小見出しはなかったため原文に合わせて省略した。
(註2) obligationは義務とも訳せるが、先行翻訳に従い責務と訳することにした。
(つづく)
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