「二源泉」 責務について その3 ――社会的自我と責務
前回は、社会の法が、私たちの目には自然の法則に似たものとして現れることを見た。今回は、さらにその議論を進めて、責務が決して単に外から私たちに課されるものではなく、私たち自身の内にある「社会的な自我」を通して働くものであることを読む。少し長い引用になるが、ここは水草のたとえからロビンソン・クルーソー、キプリングの森林警備員の例までが一続きになっており、責務が私たちの内側でどのように働くかを示す重要な箇所である。ベルクソンはここで、水草のたとえを用いながら、私たちの自我が表面では他者と結びつき、社会の中に安定を得ていることを示す。そして、責務とは人と人との絆である以前に、まず私たち一人ひとりを自分自身に結びつけるものだと言うのである。
かくして私たちは常に同じ比較に立ち戻ることになる。それは多くの点で欠陥があるが、私たちが関心を持つ点においては容認できるものである。都市共同体の成員は、有機体の細胞のようにつながり合っている。習慣は、知性と想像力に助けられ、彼らの間に規律を導入する。その規律は、吻合した細胞を持つ有機体の一体性を、個々の独立した個人の間に確立する連帯によって、遠くから模倣するものである。
再び、あらゆるものが社会秩序を、自然界に見られる秩序の模倣へとつくりあげる方向に作用する。私たち一人ひとりは、自分自身に目を向ければ、自分の好み、欲望、あるいは気まぐれに従い、他人のことを考えない自由を明らかに感じている。しかし、そのような弱い意志が芽生えの兆しを見せるやいなや、蓄積されたすべての社会的諸力からなる対抗する力が現れる。それぞれが別々の方向に引くであろう個人的な動機とは異なり、この力は自然現象の秩序と似通っていないこともない秩序へと至るであろう。有機体を構成する細胞が、一瞬意識を持つようになったとして、自ら解放されようとする意図をかすかに描いただけで、たちまち必然性によって再び捕らえられるだろう。社会の一員である個人は、その人が多少なりとも創り出すことに関わった、しかし何よりもその人自身がその支配を受けている、あの自然の必然性に似た必然性をある程度なら変えたり、さらには打ち破ったりすることもできる。その必然性の感覚は、それから逃れることができるという意識を伴っていても、やはりその人が「責務」と呼ぶものであることに変わりはない。このように考えられ、そして最も一般的な意味において捉えられるならば、責務は必然性に対して、習慣が自然に対するのと同じ関係にある。
それは、したがって厳密には外部から来るものではない。私たち一人ひとりは、自分自身に属するのと同じだけ、社会に属している。もし彼の意識が深く働き、彼がさらに内奥へ降りていくにつれて、他者とは比べようがなく、しかも言い表すことのできない、ますます独創的な個性が彼に見えてくるとしても、私たち自身の表層においては、他の人々と切れ目なく連続しており、彼らに似ており、彼らと私たちとの間に相互依存を生み出す規律によって結び合わされている。この社会化された自己の部分に身を置くことは、私たちの自我にとって、何か堅固なものに結びつく唯一の手段なのであろうか。もし私たちが衝動と気まぐれと後悔の生活から他に逃れる術を持たないのであれば、そうであろう。しかし、私たち自身の最も深いところに、もし私たちがそれを探し求めるやり方を知っているならば、表面的な均衡よりもさらに望ましい、別の種類の均衡を発見するかもしれない。水面に昇る水草は、絶えず流れに揺さぶられている。その葉は水面の上で合わさり合い、その絡み合いによって上部に安定性を与える。しかし、それよりもさらに安定しているのは、大地にしっかりと張られ、下からそれらを支える根である。しかしながら、自己の底まで掘り下げる努力については、今のところは語らない。それがもし可能だとしても例外である。そして、私たちの自我が通常、結びつきを見いだすのは、その表面、つまり他の外面化された人格の密な織物への挿入点においてである。その堅固さはこの連帯の中にある。しかし、それが結びつく点において、自我自体も社会化されている。私たちが人間の間の絆として思い描く責務は、まず第一に私たち一人ひとりを自分自身に結びつける。
したがって、純粋に社会的な道徳が個人的な義務を軽視すると非難するのは誤りである。たとえ私たちが理論上、他の人々に対してのみ責務を負うとしても、実際には、私たち自身に対しても責務を負うことになる。なぜなら、社会的な連帯は、私たち一人ひとりの中で個的な自我に社会的な自我が付け加わったときにのみ存在するからである。この「社会的な自我」を育むことが、社会に対する私たちの責務の本質である。私たちの中に社会の何ものかがなければ、社会は私たちに対して何の影響力も持たないであろう。そして、もし私たちがそれを私たち自身の中に見いだすならば、私たちは社会にまで行く必要はほとんどなく、私たち自身で事足りるのである。その存在は人によって多かれ少なかれ顕著であるが、私たちの誰もがそれから完全に孤立することはできない。人はそれを望まないだろう。なぜなら、人は自分の力の大部分が社会から来ており、社会生活の絶えず新たになる要求のおかげで、そのエネルギーの絶え間ない緊張、努力における方向の一貫性が保たれ、それが彼の活動に最高の効率を保証することをよく感じているからである。しかし、たとえ望んだとしても、人はそうすることはできないだろう。なぜなら、人の記憶と想像力は社会がその中に注ぎ込んだものによって生きており、社会の魂は彼が話す言語に内在し、たとえ誰もいなくても、たとえ彼がただ考えるだけであっても、人はなおも自分自身に語りかけているからである。あらゆる社会生活から切り離された個人を想像しようとしても無駄である。物質的にさえ、孤島のロビンソンは他の人間との接触を保っている。なぜなら、彼が難破船から救い出し、それがなければ窮地を切り抜けることができなかったであろう人工的に作られた品々が、彼を文明の中に、ひいては社会の中に留めるからである。しかし、彼にとっては道徳的な接触がさらに必要である。なぜなら、もし彼が絶えず甦える困難に対して、その限界を感じている個人的な力でしか立ち向かうことができなければ、彼はすぐに気力をなくしていただろうからだ。人は、人が観念の上で結びついている社会からエネルギーを引き出す。人は社会を見ることができなくとも、社会は人を見つめる存在としてそこにある。もし個々の自我が社会的な自我を生き生きと現在に保ち続けるならば、人は孤立していても、社会全体の励ましやさらには支えを受けて行うであろうことを行うだろう。状況によって一時的に孤独を運命づけられ、自己のうちに深い内面生活の源泉を見いだせない人々は、「なすがままに任せること」、すなわち個的な自我を社会的な自我によって定められた水準に固定しないことが、どれほどの代償を要するかを知っている。したがって、彼らは社会的な自我が個的な自我に対する厳しさを少しも緩めないように、それを維持することに注意を払うだろう。必要であれば、彼らはそれに物質的かつ人工的な支えを探し求めるだろう。キプリングが語る、インドの森の真ん中にある小屋に一人でいる森林警備員のことを思い出す。毎晩、彼は夕食のために黒い礼服を着る。「孤立の中で、自己への敬意を失わないために」¹。
¹ Kipling, In the Rukh, dans le recueil intitulé Many Inventions. (キプリング、『多くの発明』と題された作品集の中の『ルフにて』)
(つづく)
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