「本居宣長」第二章 その1

 「二源泉」を読み進めてきた旅の途中だが、ここで一度、「本居宣長」第二章に戻りたい。

小林秀雄さんの「本居宣長」第二章は、第一章で取り上げられた宣長の遺言書の最後の一節を引くところから始まる。

さて、宣長の長い遺言は、次のような簡単な文句で終る。「家相続跡々惣体之事は、一々不及申置候、親族中随分むつまじく致し、家業出精、家門絶断無之様、永く相続之所肝要に而候、御先祖父母へ之孝行、不過之候、以上」

――小林秀雄「本居宣長」

すでに見てきたように、遺言書の大半は、自分の葬式や墓所についての細かな指示で占められ、家の相続全般については、このように最後にわずかに触れられているだけである。続く小林さんの言葉を借りれば、「明らかに、宣長は、世間並みに遺言書を書かねばならぬ理由を、持ち合せていなかったと言ってもよい」。

    それでは、宣長はなぜ、このような遺言書を書いたのだろうか。池田雅延氏が指摘するように(Web雑誌『身交ふ』「小林秀雄『本居宣長』を読む(五)」)、この遺言書と、そこに至る宣長の振舞いには、小林さんが第一章で「申披六ヶ敷筋もうしひらきむつかしきすじ」と呼んだ、他人には容易に説明しにくい考えがあったのではないだろうか。

    しかし、この問いにすぐ答えを与えようとするより、まず第二章に描かれた一連の出来事を見てみたい。そこでは、宣長のこれまでの教えと相容れないようにも見える出来事が記されている。日頃、死後のことを思いはかるのは「さかしら事」であり、古意に背くと教えていた宣長が、ある日、自分の墓所を見立てに行くと言い出したのである。それまでの教えと自らの行動とが食い違っている、少なくとも大平には、そう見えた。

このような宣長を、池田氏はどのように読んだのか。池田氏の先の文章では、宣長の行動を「生きた個性の持続」として読む道筋が示されている。ここで、その文章を手がかりに、弟子たちには矛盾と見えた宣長の行動に、小林さんがなぜ宣長という一人の人間の「一貫性」を見たのか、私なりに考えてみたい。

その一連の出来事を見る前に、小林さんがこの遺言書を「最後の述作」と呼んだ箇所を、もう一度確認しておきたい。

遺言書には、自分の事ばかり、それも葬式の事ばかりが書いてある。彼は、葬式の仕方については、今日、「両墓制」と言われている、当時の風習に従ったわけだが、これも亦、遺言書の精しい、生きた内容とは関係がない。私が、先きに、彼の遺言書を、彼の最後の述作と呼びたいと言った所以も、その辺りにある。彼は、遺言書を書いた翌年、風邪を拗らせて死んだのだが、これは頑健な彼に、誰も予期しなかった出来事であり、彼の精力的な研究と講義とは、死の直前までつづいたのであって、精神の衰弱も肉体の死の影も、彼の遺言書には、先ず係わりはないのである。動機は、全く自発的であり、言ってみれば、自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家の姿が、其処に在ると見てよい。遺言書と言うよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える。

この一節だけを読んでも、宣長がなぜこのような遺言書を書いたのか、小林さんの言う「信念」が具体的に何を指すのかは、まだ十分には見えてこない。しかし、その遺言書に至る宣長の振舞いを間近に見て、まず戸惑ったのは弟子たちだっただろう。

    宣長の家学を継いだ養嗣子大平は、「日記」にこう書いている。「去々(寛政十一未のとし)秋之頃、故翁私ヘ被語候ハ、愚老墓地を見立度候間、近日之内山室之妙楽寺の辺へ歩行致度候。其節ハ、外に社中之内一両輩被参候ハヾ、同道可申など物語られ候。其時、吉事ニもなき事なれバ、如何いかんとも返答も不レ申、しばらく黙して居申候。さて私申候ハ、うつそみ之世之人無き跡の事思ひ斗はかり申置候ハ、さかしら事にて、古意に背き可レ申哉など答へ居申候。さて九月十六日之夜、講釈後、被レ語候ハ、明日天気く候ハヾ、山室へ参可レ申候間、社中之内被参候人あらバ、明五ッ時、出かけられ候様ニと被申候ニ付、其夜講席ニ出居候外ニも、さそひ合而、翌十七日十二三輩同道仕候而、右山室之山内ニて、よき地所見立被レ申候

――小林秀雄「本居宣長」

    宣長から墓所を見立てたいと聞かされた大平は、しばらく黙っていたが、やがて、死後のことを思いはかるのは「さかしら事」であり、「古意」に背くのではないかと問い返した。ここでいう「古意」とは、古代の人々が自ずと従っていた生き方の軌範と考えてよいだろう。その後、十二、三人の門人を伴って山室へ出かけ、墓所を定めた。大平の申分はもっともであったが、宣長はこれを黙殺した、と小林さんは書いている。そして、「大平を相手に、彼に、どんな議論が出来ただろうか」と続けている。

彼は、墓所を定めて、二首の歌を詠んだ。「山むろに ちとせの春の 宿しめて 風にしられぬ 花をこそ見め」「今よりは はかなき身とは なげかじよ 千代のすみかを もとめえつれば」。普通、宣長の辞世と呼ばれているものである。これも、随行した門弟達には、意外な歌と思われたかも知れない。

――小林秀雄「本居宣長」

宣長は、それまで、人は死ねば善悪を問わず黄泉の国へ行くと説いていた。ところが、この二首、とりわけ「千代のすみか」という言葉は、少なくとも後人の眼には、従来の説とは相容れないものと映った。後世、川口常文は、この歌を、宣長が晩年になって従来の説の誤りを悟った証しと受け取った。また平田篤胤には、宣長が自らの思想の不備や矛盾を自覚し、ついにこれを解決したものと映じた。こうして宣長の言葉や行動の間に矛盾を見出し、それを一つの思想体系として整合させようとする試みは、後世の宣長研究にも形を変えて現れることになった。しかし小林さんは、そこに後人による宣長への誤解を見ている。こうした誤解は、時代を超えて現れる。小林さんは、明治四十四年に書かれた村岡典嗣つねつぐの著書「本居宣長」を名著と呼び、「今日でも、最も優れた宣長研究だと思っている」と高く評価している。また、その研究が宣長への敬愛の念で貫かれていることを認めながらも、「宣長の思想構造という抽象的怪物との悪闘の跡は著しい」と述べている。

 では、小林さんは、後人の眼には矛盾と映った宣長の言動を、どのように見たのだろうか。第二章から、要となる箇所を三つ引いてみたい。

この誠実な思想家は、言わば、自分の身丈みたけに、しっくり合った思想しか、決して語らなかった。その思想は、知的に構成されてはいるが、又、生活感情に染められた文体でしか表現出来ぬものでもあった。この困難は、彼によく意識されていた。

――小林秀雄「本居宣長」

私は、研究方法の上で、自負するところなど、何もあるわけではない。ただ、宣長自身にとって、自分の思想の一貫性は、自明の事だったに相違なかったし、私にしても、それを信ずる事は、彼について書きたいというねがいと、どうやら区別し難いのであり、その事を、私は、芸もなく、繰り返し思ってみているに過ぎない。宣長の思想の一貫性を保証していたものは、彼の生きた個性の持続性にあったに相違ないという事、これは、宣長の著作の在りのままの姿から、私が、直接感受しているところだ。

――小林秀雄「本居宣長」

要するに、私は簡明な考えしか持っていない。或る時、宣長という独自な生れつきが、自分はこう思う、と先ず発言したために、周囲の人々がこれに説得されたり、これに反撥したりする、非常に生き生きとした思想の劇の幕が開いたのである。この名優によって演じられたのは、わが国の思想史の上での極めて高度な事件であった。この文を、宣長の遺言書から始めたのは、私の単なる気まぐれで、何も彼の生涯を、逆さまに辿ろうとしたわけではないのだが、ただ、私が辿ろうとしたのは、彼の演じた思想劇であって、私は、彼の遺言書を判読したというより、むしろ彼の思想劇の幕切れを眺めた、そこに留意して貰えればよいのである。

――小林秀雄「本居宣長」

出来れば第二章のすべてを引用したいほどだが、それでは本稿の役目を越えてしまう。第二章は比較的短いので、読者諸氏にもぜひご自身でお読みいただきたい。

小林さんは、遺言書に宣長の思想劇の幕切れを眺め、そこから、その幕を開いた「宣長という独自な生れつき」へと分け入っていく。そして、その思想劇の一貫性を支えていたものが、「彼の生きた個性の持続性」だった。では、この「持続性」とは、いったい何を意味するのだろうか。次稿では、まず池田氏がこの「持続性」をどのように読んだかを確かめたうえで、私自身の考えを述べてみたい。

 

(つづく)


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